芸術、感動の共有
- 2021/02/10 11:31
- カテゴリー:芸術
芸術は不可解なときが多いです。以下画像は子供のような無垢の心を持ち続けたピカソの作品です。
ピカソが自転車のハンドルとサドルを見たときに牛の頭を想像したそうです。その牛が喧噪の中で闘牛士に突進していった牛か、カタロニアの田園風景の中で反すうしていたのかわかりません。でも、できあがった牛の頭を見ると、真っ直ぐこちらを見つめる逞しい牛に見えます。
「ある日、ぼくはサドルとハンドルを手にするとそれを重ねて雄牛の頭をこしらえる。上出来だ。でもその直後、雄牛の頭を投げ捨てなければならなくなったとする。通りか溝か、場所はともかくそれを放り出さなければならない。その時、行員が通りがかって、それを拾い、この牛の頭を使えば自転車のサドルとハンドルが作れそうだと思う。そんなことになればすばらしいだろうな。これこそ変身の力だ。」
このピカソの言葉は、思いの共有、感動の想起を語ったのだと思います。だから 「ハンドルとサドルであることが認識されないと、この彫刻は面白みのないものになってしまう」 と言ったのだと思います。
マチスが弟子の作品中の赤い色を見て「赤を描くならもっと綺麗な赤を」と言った言葉も理解の助けになります。
グーグル画像検索⇒マチス
アンディ・ウォーホールが日本に来たときに『イマ人を刺激する』と題して、右肩にテレビのテストパターン(カラーバー)を持ちながら「アカ、ミドリ、アオ、グンジョウイロ…キレイ」と言ったのも有名です。
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