体調不良が続いてます。浜松の猛暑は手強いです。古希ですから寄る年波ですね。さて、今回は芸術について、つまり「美学のお話」です。
本題に入りましょう。
芸術というのは、きっと精神空間における経験なんだろうなと思います。
Aさんの「私は楽しい」という思いが、Bさんに、何がどの様にかを、より明確に具体的に正確に確実に伝われば「楽しい」の共有に近付くことができるかも知れません。
Bさんは、それまで触れることも想像することもできなかった「楽しい」を知ることになります。
ときには、それが「悲しい」であったり「苦しい」であったり「悲しみ」の共有であったりすることもあるでしょう。
これが、芸術論では「芸樹とは何か?」という問いかけであったり、美学では「美しい」とは何か?との問いかけに対する答えなのではないかと思います。
小さな子供が、些細なことで泣きながら母親に駆け寄ってゆくのは、必ずしも身体や心に取り返しがつかないほどの痛みを持っているとは限らないということです。
多くの場合は、ただ「痛い、痛かった」ことを伝える、つまりそれを理解してもらいたい、痛みを知ってもらいたい、分かち合いたいという思う無意識の行動なんだろうと思ってます。
しかし、個人の思いや精神世界の共有というのは、簡単なことではなく、もしかしたら本当は不可能なことなのかも知れません。
掘り下げて考えてみると、人生の中で心の痛みを味わったことのない人が、他人の心の痛みを想像するのは困難なことです。理解することも難しいと思います。
【私は楽しい】=【貴方も楽しい】
【私は悲しい】=【貴方も悲しい)
【私は嬉しい】=【貴方も嬉しい】
【私は辛い】=【貴方も】
【私は痛い】=【貴方も・・・】
このそれぞれの2つの言葉をつなぐ「=」に代わるものとして芸術の存在意義があります。小さな子供の「ねぇ、ねぇ、お母さん」の次に来る言葉と同じようなものだと言うことです。
この「=」の部分を言葉で埋めると「文学」、そして「絵画」や「彫刻」などで埋めると視覚芸術、さらに「音」で埋めると音楽です。
ここに芸術の存在意義があります。
ここで一応確認しておきます。
ヨーロッパの文化は古代ローマ帝国から現代に繋がって来てます。その古代ローマの文化は、探せば例外が見つかる程度で、ほぼ全て古代ギリシアの文化を継承してます。
古代ローマ語、つまりラテン語の語源はさておき、ゼウスはユーピテル(ジュピター)であり、アフロディテはヴィーナス、ヘルメスはメルクリウスと言葉が替わるだけで同じ神々の言い換えにしかすぎません。
もちろん、ミュージック(Music:英)、ムジーク(Musik:独)の語源は、ギリシャ神話の芸術・詩・音楽を司る女神「ミューズ(Muse)」に由来し、英語の「Music」は、ミューズの女神が司る【芸術】を意味するギリシャ語「ムーシケー(mousikē)」に始まり、それが古代ローマ語のラテン語、その派生のフランス語を経て英語に取り入れられたものです。
でもそんなお門違いな学問ではなく、ここでの問いかけは、その先にあるべき事がらの話です。常に無知の知を自覚し、変な学者に惑わされないようにしたいと願ってます。そのためにも哲学も心理学も学んだ方が良いようですね。
閑話休題
音楽について考えると「楽しくなければ音楽じゃない」という発想があるような気がしてます。この誰にでもわかりやすい単純な発想にについて考えておきます。
私利私欲の塊メディアの言葉には注意が必要です。人の心はお金だけでは救うことができないからです。
当たり前ですが「サーカス」と「芸術としての演奏」は共通する点があっても別物です。芸術は驚きのずっと先に位置しているからです。
混同してはいけません。ピカソの描く線が光の直進のごとく真っ直ぐであっても芸術としては無意味なのです。つまり、ピカソは絵が下手くそだと言う思い違いの話です。彼は若い頃、青の時代の前に徹底的に技術を磨いた人です。興味のある方はバルセロナのピカソ美術館です。
これは、今まさに他界する瞬間の億万長者を想像すればわかることです。日本人に身近なところでは、たった262文字で生と死を解いた般若心経に集約されると思います。
しかし、今ここで話題にしているのは般若心経の先、つまり宇宙の果て、ブラックホールの先の話題です。下記アインシュタインの言葉にあるように、人の精神世界はもしかしたら無限の広がりと深さと時間を持っているのかも知れないからです。
人は「無限の夢」と「有限の現実」の間で生きている。これが「夢と現実/Traum und Wirklichkeit」の自覚です。
音楽は時間の流れとともに始まり終わります。「こんにちは」と「サヨナラ」の間に音楽という芸術があるわけです。
一般的には「こんにちは」と「サヨナラ」の間には「愛」があります。音楽も芸術も同じです。ですからこの2つの言葉は大切なんだと思います。
家族でも良いですし、自分以外との関わりなら「おはようございます」「おやすみなさい」とか、「いただきます」「ご馳走さま」の言葉の意義でもあると思います。
音楽芸術は時間の芸術です。これは、自分の視野や知識、知恵の総動員で聴いても刻々と流れ去るという話です。当たり前ですが、勝ち負けではなく、丸バツだけの単純な価値観とは世界が違います。
ウィーンの教育と浜松の教育を比較するのが正しいかどうかわかりません。でも決定的な違いは「愛」の大きさと深さだろうと感じてます。教育というのは、もちろん「家庭」「社会」「教育制度の中」これら全てのことです。
もしかしたら、日本では縄文からの芸術や文化が途中で失われてしまったのかも知れません。
家族単位程度の移住が、少なくとも数百年間続き、縄文遺伝子に弥生遺伝子と呼ばれる雑多な大陸遺伝子が入り込み、古墳時代にも大規模な遺伝子の混血があり、それにより縄文遺伝子は1割程度が残るだけになりました。
想えば、土偶が消えて埴輪になったときに、日本列島の住民が数万年間の文化を忘れ去った、これが日本の古代史なのかも知れません。記紀の本質、つまり隠蔽や嘘を解き明かす必要性を強く感じてます。私が、貴方が神社で手を合わせるその先には何があるのかです。
これは、お金が全ての宗教ではなく、宗教哲学や芸術論、美学の世界での話しです。
ホモ・サピエンス史上で最高無二の文化が縄文文化です。日本の教育者大先生がでっち上げた4大文明は、7300年前のカルデラ火山の噴火後、つまりせいぜい5千年とか長く見ても6千年前の話です。縄文は数万年の話ですから単位が違います。
個人的には、日本での生活が日々流れる間に、芸術としての音楽は日本に存在しないと感じるようになってます。これは偏差値教育で知性が地に落ちたのが原因ではないかと想像します。
ウィーンを首都とするオーストリアと現在の日本を比較すると、偏差値を全てとする教育と社会は間違っていると感じるのです。外国かぶれの弊害ですね。
しかし、このような状態の日本では、絶対音感が音楽才能だと短絡的な思考になるのは当然のことです。もちろん「読み書き算盤」の能力や絶対音感はあったほうが便利です。大切なことは、それだけでは無いという話です。
IQ検査なるものがあります。ヨーロッパでは紙面でも会話でも一度も触れませんでした。それに比べて日本人は偏差値とかIQとかが好きなようです。これは数字ですからわかりやすいのでしょう。もちろん、大切なことはわかりにくいところにあります。
個人的には、IQ検査の結果はその度に数値が変化し、低ければ145、高ければ160です。集中力思考の転換速度を数値に置き換えるだけの検査ですから、たぶんそのときの体調にもよるのでしょう。
「IQが20違うと会話が成立しない」 というよく知られた言葉があります。実際には「IQが20違う場合、上位者が下位者に目線を合わせないと会話がスムーズに進行しない」ということらしいです。
IQ145とすれば125以下の人との相互理解が難しく、160ならIQ140以下の人との会話は普通には成立しないとの話です。理解不能では仕方ないです。
もちろん、IQとの数値と芸術としての西洋音楽についての関わりは不明です。芸術には感性が関わってます。
アインシュタインのIQは160以上、少なくとも190以上だろうと言われてます。ですから160の想像力では遠く及びません。ですが、彼がが娘に送った手紙について考えることはできます。それが芸術にも繋がることだろうとも思います:
『世界を癒すエネルギーは、光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、愛には限界がないため、愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った』
今回は美学に関する考察ですから、長くなりました。