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2021年08月の記事は以下のとおりです。

フォルクスオペラのフラッシュモブ

数え切れないほどのフラッシュモブの中で、相変わらずこれが一番好きです。さすが我らがフォククス・オーパー、面目躍如です。たった4分ぐらいで、さっさと初めて、終わらせる潔さもウィーンらしくて好きです。

ウィーン西駅のフラッシュモブ

 

撮影場所はウィーン西駅です。昔話ですが西駅界隈に20年以上住んでましたから懐かしいです。

たくさん・たくさん学び、たくさん・たくさん経験して、行き着く先は理屈じゃなくて感動と感性なんだと感じさせられます。

楽器の違い

セゴビアのレッスンでお弟子さんから「セゴビア先生のギターは名器だから音が違う」と言われたときに、お弟子さんの楽器をセゴビアが手に取り、弾いたビデオテープがあります。

つまりセゴビアは、楽器以前に鳴らし方や弾き方が大切なことを示したわけで、楽器の鳴らし方を知らない人の弱音と、制御された繊細な弱音の間には大きな差があることを思い知らされた録画でした。

セゴビアが弾くと、お弟子さんのヘボ楽器が艷やかな響きで見事に音楽を紡ぎ出したわけですが、最近はその動画がYouTubeにあるのではないかと思います。見付けたらアップデートして貼り付けますね。

 

以下の動画は一人で6本のギターを次々と持ち替えての演奏です。響きは同じ指の一人の演奏家の音で統一性があり、その上で楽器による音の違いも確認できて興味深いです。ワルカー、セゴビア、ブリームなどの巨匠とは次元が違うとは言え、素晴らしい名演ですね。

◆ 1) 1964 Manuel de la Chica

マヌエル・デ・ラ・チーカ(1911グラナダ-1988グラナダ)

1930年代後半から製作を開始1970年代初めに体調不良の為引退。他のグラナダの製作家とは異なる楽器を生んだのは、レヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサやアメリカに移住する前のセウドニオ・ロメロ等との親交から、サントス・エルナンデス等の名器に触れる機会が有ったことからと考えられる。

◆ 2) 1996 Ignacio Fleta e hijos

イグナシオ・フレタ・エ・イーホス

イグナシオ・フレタⅠ世(1897年スペインのウエスカ生)はハウザー、アグアドと並び称されるバルセロナのギター製作家。13才でバルセロナに上京しフランス人弦楽器工房で修行。当初はチェロ、ヴァイオリン制作家だったが、1950年にセゴビア演奏レコードに感動し、1955年頃から息子のフランシスコ(1925年生)とガブリエル(1929年生)と共にクラシックギター製作を始め、1962年頃からラベルが、それまでの「Ignacio Fleta Barcelona」から「Ignacio Fleta e Hijos」に変わり2人の息子との共作となる。彼らのギターは独自の製作方法で作られ、重厚で輪郭のはっきりとした、芯のある美しい音が知られる。現在は三代目ガブリエルJr.。セゴビアやジョン・ウィリアムス、トリビオ・サントスが弾いたことから一気に世に知られるようになった。演奏者を問わずしっかりとした豪快な鳴りにも関わらず清潔感もある。バルセロナのような海辺で制作された楽器は表面板が割れやすいので湿度管理に留意が必要。

◆ 3) 2014 Roy Fankhänel(ドイツ)

http://fankhaenel-gitarrenbau.de/

◆ 4) 2014 Bernd Holzgruber double top

ベルント・ホルツグルーバー(1939ヴェルデン、オーストリア)

オーストリア Velden am Wörther See のギター製作家。1968年にカール・シャイトのクラスでウィーン国立音大の卒業コンサートを自作ギターで演奏。19世紀ギターから近代ギター、その他の撥弦楽器を研究し多くのレプリカを制作。

◆ 5) 2014 Keijo Korelin double top

http://keijokorelin.com/

◆ 6) 1999 Ignacio Fleta e hijos

イグナシオ・フレタ・エ・イーホス

イグナシオ・フレタ(1897年生)が1955年セゴビアの演奏を聴いて感動し、息子のフランシスコ(1925年生)とガブリエル(1929年生)と共にクラシックギター製作に専念。彼らのギターは独自の製作方法で作られ、重厚で輪郭のはっきりとした、芯のある美しい音を持つ。現在は三代目ガブリエルJr.。

 

現在のギター制作の始まり

今回はギター楽器の制作史です。古典派時代に生まれたギターという楽器は、19世紀後半に入ると徐々に音楽史の表面から消え去り、スペインの民衆音楽フラメンコの中で生き続けます。

そんな中でアントニオ・トーレスが、19世紀ギターよりも一回り大きく、形状をフラメンコギターから採用した音量のある楽器を制作したのが現在のギターの原型とされてます。

上記YouTube動画で扱われている「エルナンデス・イ・アグアド」と呼ばれるギターは、マヌエル・エルナンデスとアグアド・ロドリゲスの二人によって製作された銘器です。

  • サンチャゴ・マヌエル・エルナンデス(Santiago Manuel Hernandez) の呼び名で知られるSantiago Diaz Martinez(1895トレド近郊の Valmojado~1975)
  • ビクトリアーノ・アグアド・ロドリゲス (Victoriano Aguado Rodriguez 1897Madrid~1982)

彼らは、職場だったマドリードのピアノ工房で知り合い、良き友人となったそうです。二人で工房を立ち上げた当初は家具やピアノの修理、その後ギター製作を手掛けるようになりました。

製作は、エルナンデスがギター本体の製作を受け持ち、アグアドがニス塗り、ヘッドの飾りや細工を施して、全体の点検だったそうです。

1950年にギター専門工房としてスタートしたときの1本目をNo.100として1974年最後の作品No.454まで連続して355本製作されています。もちろん、ギター専門工房を始める前からもギターを製作しており、1924年の製作番号No.1のギターから始まり、何本製作したかは定かではありませんが、全部で400本以上製作したことは確かみたいです。

また、これ以外にも工房ブランドとしてのギターもあるようです。実際、何本かサインやシリアルナンバーがないエルナンデス・イ・アグアドのラベルが貼られているギターを見たことがあります。

ちなみに、最初のシリアルナンバーNo.1と最後の No.454のギターが、茨城県八郷町のギター文化館に展示されてます。

身体が不自由だったアグアドは、晩年の1970年頃から実際の製作には携わらず、エルナンデスは、娘婿であったヘスス・ベレサール・ガルシア (Jesus Belezar Garcia 1920~1986)と一緒に製作していたようです。

おそらく、この1972年のギターも、アグアドは設計において携わったかもしれませんが、実際の製作は、エルナンデスとガルシアが行ったものだったようです。

 

以上http://home.h00.itscom.net/shiokawa/hernandezyaguado.htmlhttps://www.siccasguitars.de/shop/guitar/hernandez-y-aguado-1961/から。

wurden gute Freunde, die nach der Produktionseinstellung ihres Arbeitgebers ihr eigenes gemeinsames Unternehmen gründeten, welches sich zunächst mit der Restauration von Möbeln und Pianos beschäftigte. Eher zufällig landeten die beiden beim Gitarrenbau, als der begeisterte Amateurgitarrist Victoriano Aguado Rodriguez zwischen 1945 und 1948 zwei Gitarren zum persönlichen Vergnügen baute, die eines Tages schicksalhafter Weise den Weg zu Regino Sainz de la Maza – zu der Zeit Professor für Gitarre am Real Conservatorio in Madrid – fanden, der das Talent der Freunde erkannte und sie ermunterte, weitere Gitarren zu bauen. Als um 1948 Modesto Borreguero, der vorher in der Werkstatt des berühmten Gitarrenbauers Manuel Ramirez gearbeitet hatte, zu ihnen stieß, begannen Manuel Hernandez und Victoriano Aguado Rodriguez sich mehr und mehr auf den Gitarrenbau zu konzentrieren – mit enormem Erfolg. Bald verkauften sie Gitarren in die ganze Welt, sogar an die thailändische Königin Sirikit. Bedeutende Künstler wie John Williams, Julian Bream und Atahualpa Yupanqui spielten „HyA“-Gitarren.

以下は上記ドイツ語からの機械翻訳:

独自の合弁会社を設立し、当初は家具とピアノの修復を扱っていました。 偶然ではなく、熱狂的なアマチュアギタリストのビクトリアノアグアドロドリゲスが1945年から1948年の間に個人的な楽しみのために2本のギターを製作したとき、2人はギター製作に行き着きました。マドリッドのRealConservatorioで–友人の才能を認め、彼らにもっとギターを作るように勧めました。 有名なギターメーカーのマヌエル・ラミレスのワークショップで以前働いていたモデスト・ボレゲロが1948年頃に彼らに加わったとき、マヌエル・ヘルナンデスとビクトリアノ・アグアド・ロドリゲスはますますギター製作に集中し始め、大きな成功を収めました。 彼らはすぐに世界中でギターを販売し、タイのシリキット女王にも販売しました。 ジョン・ウィリアムズ、ジュリアン・ブリーム、アタウアルパ・ユパンキなどの重要なアーティストが「HyA」ギターを演奏しました。 

トーレス制作のギターはタレガが弾いたことでよく知られてますが、タレガの弟子であり唯一の後継者とされるリョベートもトーレスを弾き、最近はそのリョベートが弾いた3本のトーレスのうち2本目を福田進一さんが弾いてますね。


タレガにせよリョベートにせよ演奏技術が高かったので、トーレスを弾きこなすのは並大抵のことでは無いのがよくわかります。

また、Fソルが弾いたフランス19世紀を代表する制作家ラコートは、近代楽器のトーレスと比べ全く別の楽器と考えたほうが良さそうです。

エンデチャ・オレムス

この曲「エンデチャ・オレムス」は、小品ながらフラシスコ・タレガ(Francisco Tárrega:1852/11/21 - 1909/12/15)の名曲として知られてます。

以下は、ギター弾きの間では良く知られていることですが、メモとして記しておきますね。

Tárregaの綴りは「r」の文字が2つ続くことから、日本では「ターレガ」「タルレガ」などとも呼ばれてます。 

エンデチャ・オレムスは、タレガによって別々に作曲された Endecha(哀歌)と、Oremus(祈り)の2曲がまとめられて1ページの楽譜として出版され、2曲続けて演奏されるので、エンデチャ・オレムスで一曲のごとく扱われます。

「エンデチャ」も「オレムス」も両曲共にまるでメモのような数行の小品ながら、ギターの魅力がよく表現され、左右の指使いの難易度も低いので、初心者の発表会などで弾かれることが多いです。

もちろん美しく演奏するのは並大抵のことでは無く、「melody」「harmony「rythmus」の基礎の上にディナーミク(dynamik)の表現、そしてアゴーギク(独 Agogik)とアーティキュレーション(articulation)、フレージング(phrasing)、テンポ・ルバート(伊 tempo rubato)についての分析、さらに、歴史と地理的民族的な様式など、理解できれば何でもない当たり前のことが、わからなければ最後まで気付くことが無いという厄介な問題に引っかかってしまうことが多いです。

因みにテンポ・ルバートについての記述はモーツアルトが最初だったずです。

「1909年、12月2日、バルセロナにて遺作となる『オレムス~Oremus(祈り)』を作曲。 楽譜に日付を記した直後、12月3日未明に気分が悪くなり、
12月15日、静かに息をひきとり、本人の遺志により故郷のカステリオンに埋葬されました。」https://chitarra.rossa.cc/history/his11.html

作曲家の遺作と言われる「オレムス」の語源はラテン語で「Let us pray/祈り」の意だそうです。WikiPedia「Oremus (Tárrega)」

上記WikiPediaによるとタレガ作オレムスの原曲は、シューマンのピアノ作品だそうです。 「transcription of the second section of Robert Schumann's Phantasietanz, Op. 124, no. 5.」

このシューマンの原曲を聴いてみると、ピアノらしい音の繋ぎ方が感じられますが、メロディを浮き立たせるのが難しいためか、演奏されることは稀なようです。動画のピアノ演奏からはシューマンらしい精神障害に悩まされた葛藤や、天性の感性に突き動かされた情熱が感じられます。

タレガは原曲のピアノ曲からシューマンの美しい感性を汲み取り、ハイポジションの3度と6度の連続によるギターの魅力溢れるメロディに見事に変化させてます。

参考ページ:
https://www.delcamp.biz/viewtopic.php?t=510

 

MGG Online

MGG(Die Musik in Geschichte und Gegenwart)といえば、真面目に音楽に取り組んでいる人なら誰もが世話になっている定番中の定番として知られる音楽百科事典です。25000ページに3500人の著作者によって19000項目が網羅されており、これまでに刊行された音楽辞典中で最大の情報量です。

全巻を揃えると安いものではないので、これまではウィーンの図書館から必要ページのコピーを持ち帰り、床中にコピーを並べ、ラインマーカーを駆使して調べ物をしてました。


ヨゼフ・ツートのギター辞典がパブリックドメインで公開されていたので、もしかしてと思い当たり、独語グーグルで探してみたところヒットしました。

MGG Online
MGG Online (Die Musik in Geschichte und Gegenwart)

 

辞典とか辞書のドイツ語は難しくないので助かります。なおフルアクセスには登録が必要です。

花伝書「風姿花伝」本文

  • 2021/08/13 21:52
  • カテゴリー:その他

人を育てることは最も尊いことだというのが恩師の内田時代先生の言葉でした。

また、「子育ては人生最大の事業である」は我が家の家伝です。生き様とか人生は、子供に対する経済的な支援も含めて、両親の取り組みが大きく影響するのは間違いないです。

そういうことを考える度に思い出すのが、世界最古の教育書として知られる「風姿花伝」です。世阿弥によるものですから15世紀の始めの書です。

 

書籍は重量の都合から引っ越し荷物に入れられなかったので、数冊を除き破棄したので手元に風姿花伝の現代語訳が無いのですが、ウィキペディアからのリンクでネットに出ているのを知りました。

花伝書「風姿花伝」本文

Josef ZUTH「Handbuch der Laute und Gitarre」

Josef ZUTH著「Handbuch der Laute und Gitarre」PDFファイルがパブリックドメインで公開されてました。

ヨゼフ・ツートのギター辞典

このヨゼフ・ツートのギター辞典は、ギター関連の調べ物をするときの定番です。ドイツ語が難しくないので助かります。引っ越しで諦めた膨大な書籍の中の一冊でしたが、絶版で入手不可能ですから見つかって嬉しいです。

因みに音楽辞典は世界最大の「Die Musik in Geschichte und Gegenwart」です。

ウィーン、わが夢の街 (Wien, Wien - nur Du allein)

Wiener Lieder/ウィナーリート/ウィーン歌謡の定番です。

作家は音大ではなくウィーン大学出身の役人でした。

 1914年の曲ですから第一次世界大戦勃発の年です。ウィーンでは誰も敗戦を想像してませんでした。フランツ・ヨーゼフ皇帝の元で大いにウィーンが繁栄していたときです。

Richard Tauber [Wien, Wien nur du allein]

 

帝政末期の世紀末ですから、今から振り返るとウィーンの一番良いときかもしれませんね。

因みに「世紀末/Hundertjahreswende/フンデルト・ヤーレス・ウェンデ」という言葉は、正確に訳すと19世紀末から20世紀初頭にかけての「世紀過渡期」の意です。


簡単そうに聞こえますが、綺麗に歌っても始末に負えないという曲です。ウィンナーワルツ同様に、ウィーンの薫り高く演奏するのは、想像を絶するほど難しいです。「ウィーン、夢と現実」とは良く言ったもので、夢と現実の狭間に芸術が生まれるのがウィーンなのでしょう。ブンダーリッヒやハンス・モーザー、その仲間もお薦めです。

ワルター・マンハルト「ウィーン、わが夢の街」

1. Mein Herz und mein Sinn
Schwärmt stets nur für Wien,
Für Wien, wie es weint, wie es lacht!
Da kenn ich mich aus,
Da bin i halt z'Haus,
Bei Tag und noch mehr bei der Nacht.
Und keiner bleibt kalt
Ob jung oder alt,
Der Wien, wie es wirklich ist, kennt
Müßt' ich einmal fort
Von dem schönen Ort,
Da nähm' meine Sehnsucht kein End.
Dann hört' ich aus weiter Ferne ein Lied,
Das klingt und singt, das lockt und zieht:

 

(Refrain:)
Wien, Wien, nur du allein
Sollst stets die Stadt meiner Träume sein!
Dort, wo die alten Häuser stehn,
Dort, wo die lieblichen Mädchen gehn!
Wien, Wien, nur du allein
Sollst stets die Stadt meiner Träume sein!
Dort, wo ich glücklich und selig bin,
Ist Wien, ist Wien, mein Wien!

 

2. Bei jeder Gaudi
Na, Sie wissen's eh
Bin ich allemal gleich dabei.
Ich b'halt mein Hamur
Bis spät in der Fruah
Mir ist alles dann allerlei.
Und wenn ich beim Wein
Dann sitze zu zwein
Und sehnend ein Arm mich umschlingt,
Wenn heimlich und leis'
Der Heimat zum Preis
Ein straußischer Walzer erklingt:
Dann hört' ich aus weiter Ferne ein Lied,
Das klingt und singt, das lockt und zieht:

 

(Refrain)

 

3. Ob ich will oder net
Nur hoff' ich recht spät
Muß ich einmal fort von der Welt.
Geschieden muß sein
Von Liebe und Wein,
Weil alles, wie's kommt auch vergeht.
Ah, das wird ganz schön
Ich brauch' ja nicht z'gehn,
Ich flieg' doch in' Himmel hinauf,
Dort setz' ich mich hin
Schau runter auf Wien,
Der Steffel, der grüßt ja herauf.
Dann hört' ich aus weiter Ferne ein Lied,
Das klingt und singt, das lockt und zieht:

 

(Refrain)

 

4. In Sturm und in Not
Von Feinden umdroht,
Steht Österreich aufrecht und hehr.
Von Helden umweht
Mit funkelndem Schwert
In eiserner, schirmender Wehr!
Wo Lied und Gesang
Im Frieden erklang
Ertönt jetzt Trompetensignal!
Aus sanftem Gemüt
Erstarkt und erblüht
Ein Heldengeschlecht ohne Zahl!
Und wenn dann im Feld der Schlummer euch flieht,
Ertöne leis von ferne das Lied:

 

(Refrain)

 

自分に文才があるわけでもないのですが、
気に入った日本語訳がなかなか見つかりません。

 

「ウィーン わが夢の街 」
Wien、du Stadt meiner Träume

作詞 : ルドルフ・ジーツィンスキー
日本語歌詞 : あらかは ひろし

 

喜びも悲しみも みんなこのまちに
夜でも昼でも 心のなぐさめ
誰にでも愛される わたしのふるさと
わたしの心は いつもこのまちに
遥かきこえてくる楽しい歌声
ウィーン ウィーン
お前は心のふるさとよ
古びたまちかど かわいい娘たち
ウィーン ウィーン
お前はわたしの夢のまち
幸せあふれる夢のまちウィーン
喜びは果てもなく 酒と女と歌
ほのぼのと朝日が 空を染めるまで
静かにふたりで愛を語るとき
いつの日かこの世に別れるその日
晴れわたる大空に この身は漂い
遥かに見おろすシュテファン寺院の
尖塔に永遠の別れを告げよう
遥かきこえてくる楽しい歌声
ウィーン ウィーン
お前は心のふるさとよ
古びたまちかど かわいい娘たち
ウィーン ウィーン
お前はわたしの夢のまち
幸せあふれる夢のまちウィーン
ワルツの調べに心ははずむ
遥かきこえてくる楽しい歌声
ウィーン ウィーン
お前は心のふるさとよ
古びたまちかど かわいい娘たち
ウィーン ウィーン
お前はわたしの夢のまち
幸せあふれる夢のまちウィーン


意訳 : 山田 誠

私の心も魂も ウィーンに
降っても 晴れても 心は いつもウィーンに
だって ここは わたしの庭
昼だけじゃない、夜のウィーンも格別
だって そこは くつろげる わが家
本当のウィーンを知る人なら、
お年寄りも 若い衆も みんな温かくて
意地悪なやつなんか 一人もいないんだよ
もし いつか この美しいウィーンの街を
離れなければならなくなったとしても
きっと わたしの心だけは いつまでも
ずーっと ここにとどまっているんじゃないかなあ
そして そのとき はるか遠くから
きっと聞こえてくる ひとつの歌が、
わたしの心に 間違いなく聴こえてくる
ウィーンだ、ウィーンだけだ
そこは わが夢の街
懐かしい昔のままの家々が立ち並び
愛らしい少女たちが挨拶を交わすところ
ウィーンだ、ウィーンだけだよ
ここだけが わが夢の街
わたしが わたしらしく、幸せに満たされるところ
それこそがウィーンだ、
ウィーン、わたしのウィーン・・・

しかし 否が応でも
いつかは その時が やってきてしまうのだろうな、
- なるべく遅けりゃ いいんだけど、
それは わたしが この世を去らねばならぬ時のこと
もうお別れだ、素敵な恋心とも 美味しいお酒とも
もの皆すべて 生まれる時があれば、朽ちる時もある
ああ、でも それもまた良いかも
だって もう歩かなくていいんだもん
その時には うんと空高く 舞い上がるんだよ
天に座して、
そこから 大好きなウィーンの街を見おろしたら、
聖シュテファン教会が わたしを見上げて 挨拶してくれるかも
そして そのとき はるか遠くから
きっと聞こえてくる ひとつの歌が、
わたしの心に 間違いなく聴こえてくる
ウィーンだ、ウィーンだけだ
そこは わが夢の街
懐かしい昔のままの家々が立ち並び
愛らしい少女たちが挨拶を交わすところ
ウィーンだ、ウィーンだけだよ
ここだけが わが夢の街
わたしが わたしらしく、幸せに満たされるところ
それこそがウィーンだ、
ウィーン、わたしのウィーン・・・

民謡「Song of the Birds/鳥の歌」

 

独裁者フランシスコ・フランコのスペイン統治時代、1971年10月24日カザルス94歳、ニューヨーク国連本部で演奏「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は、ピース、ピース(英語の平和)と鳴くのです」。国連平和賞授与。


少女ルイゼ・ワルカーの演奏を聴き「ギターが歌う/Gitarre singt」と讃えた指揮者フルトヴェングラーは、チェロ奏者としてのカザルスへ次のような賛辞を残している。「パブロ・カザルスの音楽を聴いたことのない人は、弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」

バビロンの流れのほとりにて

  • 2021/08/04 04:40
  • カテゴリー:その他

ヨーロッパ留学を真面目に考えている生徒さんにお薦めの本です。すでに留学中の方にもお薦めです。「バビロンの流れのほとりにて」森有正著

バーゼルの巨匠リューティスト大島秀文さんに薦められ読んだ本です。1981年のことでした。

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