カステルヌオーヴォ=テデスコ
- 2026/07/30 15:11
- カテゴリー:音楽芸術
◆ ハリウッドでの教育活動
- ジョン・ウィリアムズ:『スター・ウォーズ』や『ジョーズ』などの映画音楽を手掛けた巨匠
- ヘンリー・マンシーニ:『ピンク・パンサー』や『ティファニーで朝食を』の「ムーン・リバー」を作曲
- ジェリー・ゴールドスミス:『エイリアン』や『オーメン』などの名作スコアを作曲
- アンドレ・プレヴィン:映画音楽だけでなくクラシックの指揮者・ピアニストとしても活躍
浜松市中区でクラシックギターを弾いてます。一緒にギターを弾きませんか?
2026年07月の記事は以下のとおりです。
この写真は、よく知られているモーツアルト像です。ウィーン市心に位置する王宮庭園にあります。像そのものよりも足元のト音記号の方が記憶に残っている方も多いでしょう。ウィーンのガーデナーさん達は職人として本物です。
年金受給開始と共に、数十年間のデータを公開してきたサーバーとドメインを徐々に止めざるを得なくなりました。
停止の理由は維持費です。数年で数倍に跳ね上がり、今年に入ってからの維持費高騰の加速は異常です。国民が3分の2の議席を与えた政府は何をしているのでしょう。
これまでのデータは、打ち込んだ文字数だけでも原稿用紙にして数万枚です。これが人の死の意味なんでしょうね。人が死ねば、その人の個人の記憶は消え去ります。
数十年間かけてある程度はネットに公開しましたが、PCに溜まったままの資料で一度も公開してないものもあります。
今回の内容は、こちらのブログとは直接の関わりはありませんが、この場を借りて終活が終わる頃まで公開しておきたいと思います。後期ロマン派とか歴史主義に関する事ですから、このブログのテーマでもあります。
名誉称号をいただいたウィーン文化講座なら半日2回分の有料講演の内容です。この講義で大切なことは、文化に対する意識です。本来はドイツ語で開催されるべき内容ですから一般の日本人には少しハードルが高いのは承知してます。よろしければどうぞ。
さて以下の写真は1900年時点でのウィーンのモーツアルト像の貴重な写真です。像の背景と向いている方向が問題です。
Unsere Monarchie - Die österreichischen Kronländer zur Zeit des fünfzigjährigen Regierungs-Jubiläums seiner k.u.k. apostol. Majestät Franz Joseph I., Georg Szelinski k.k. Universitäts-Buchhandlung, Wien 1898
The monument for W.A. Mozart by Viktor Tilgner on its old place at the Albrechtsplatz (todays Albertinaplatz'))' in Vienna
モーツアルト像が彫刻家ティルグナー作であることは、ウィーンの義務教育で学ぶ常識です。義務教育同等と説明を受け、受講したウィーン州立学校の講義で学んだことです。
日本で教鞭を取るウィーン国立音大卒業の大先生に、年金までウィーンに留まり音楽学校の先生、つまり地方公務員だったと自己紹介をしたら、モーツアルト像の写真がプリントされているファイルをプレゼントしてくださいました。
そのときに思わず「ティルグナー」と声が漏れ、それが耳に入った先生が直ぐに「ウィーンのモーツアルト像です」と訂正、ストレスで血圧が上がりましたが、7年間の音楽留学なんてのはその程度ですから仕方がないです。「無知の知」は学びの基本だということも再確認できました。
さて、ウィーンに行けば国立オペラを訪れ、カフェ・ザッハーやカフェ・モーツアルトを利用することでしょう。
ザッハーの話は有名ですから検索すれば調べられるかもしれません。過去に詳細な歴史を公開していたのですが、前述のように今はネットから消えてます。気が向いたら、というか時間と体力が許せばこのブログにアップします。
ここから先はあまり知られていない話です。
上記の写真では、像の背景が現在はホテル・ザッハーになってます。王宮庭園ではなくト音記号の花壇も無いのです。またこの写真が撮影された1900年は、まだ Café Mozart (Wien)がありません。
モーツアルト像オリジナルロケーションの写真は、もう一つあり、下記はモーツアルト像の序幕(1896年4月21日)当時の写真らしいです。
写真で右に写っている建物は日陰で暗いですが、1869年5月25日がこけら落としのウィーン帝国立&王立歌劇場、つまり現在の国立オペラ座の背中です。

それでは、歴史を紐解きましょう。
民衆王または改革王と称された神聖ローマ皇帝ヨゼフ2世(-1790)の整備で劇場と歌劇場が分けられ、次の皇帝レオポルド2世(-1792)の次の皇帝フランツ(-1835)の次の皇帝フェルディナンド(-1848)の次の皇帝フランツ・ヨセフ(1916)によって帝国オペラの建物が造られました。これが、よく知られるウィーン国立歌劇場です。
それぞれのハプスブルク皇帝と時代背景は長くなるので割愛。
このオペラ座の除幕式で皇帝のお褒めの言葉が無かったことから、建築美術家が二人とも死を選ぶことになる、その宮廷オペラ座です。1869年といえば後に続々と完成するリンク通りの公的建造物では最初の建物だったのもあり注目が集まりました。
除幕式で皇帝のお褒めの言葉をもらえなかったヨーロッパ最高の建築美術家たちは自ら死を選ぶことになります。皇帝の言動の重さを知ったフランツ・ヨセフはそれ以降は常に同じ言葉を発するようになります「Es war sehr schön, es hat mich sehr gefreut!/いとめでたし、朕いみじ嬉し!」
この帝国オペラの工事はリンク城壁が取り壊されリンク通りとなったときです。多民族帝国の首都ウィーンの人口が数倍に膨れ上がり、さらに増加が加速していた頃の話です。
直径1キロ程度のウィーン旧市街地を囲む環状道路「リンク通り」は、アジア民族の侵入に対して12世紀末にバーベンベルクによって建造され、オスマントルコの脅威が大きくなったときには歴代のハプスブルク皇帝によって規模が大きくされ続け、最後にはナポレオンの炸裂弾の前に屈した城壁の名残です。
余談ですが、城壁の外に葬られたモーツアルトの墓地は、オスマントルコの脅威が過ぎ去った1700年頃にオイゲン公の進言で皇帝レオポルド2世が建造した外環状城壁のすぐ外です。19世紀末の皇帝フランツ・ヨセフの工事の後、現在は外環状道路ギュルテル(ベルト通り)になってます。
外環状城壁の城門から南方向に伸びる街道のあたりに、街道先のベネチアの氏神様マルコを祀った墓地が置かれ、それをサン・マルコ墓地/sankt marxer friedhof と呼びました。
閑話休題。カフェ・モーツアルトの始まりはモーツアルト没後3年にこの場所に最初のカフェ開店からです。資料や文献を調べても見つからなかったのですが、ケルンテン門劇場の一角だった可能性があります。
時は中産階級の時代の始まりです。
その後、このカフェを引き継いだ Simon Corra は、1825年にウィーン初の路上喫茶を始めてます。ユダヤ人さすがです。
次にこのカフェを持ったカッツマイアーは1840に Café Katzmayerとしてカフェを引き継ぎ、ジャーナリスト、俳優や文学家が集るようになります。世界遺産として知られるウィーンのカフェ文化の始まりです。
ですが、このカフェは建物の解体で幕引きとなります。皇帝フランツ・ヨセフ勅令「Es ist Mein Wille/朕自らの決断である(20.Dez.1857)」で知られるリンク城壁の解体とリンク通りの整備のためです。検索 ⇒ es ist mein Wille Franz Joseph
この皇帝勅令の影響で、このあたりにあった旧ケルンテン門や、ベートーベン第9初演のケルンテン門劇場も解体されました。解体されなければモーツアルト像はケルンテン劇場前に建ったことになります。
建物解体で一度無くなったカフェ再開は、一次大戦の暗闇から抜け出た1918年10月10日の「Mozart-Restaurant」開店で、1929年からは今と同じ「Café Mozart」になります。
上記の写真に見られるモーツアルト像は、1896年4月21日に除幕のオリジナルです。つまり先ずモーツアルト像が置かれ、その後1918にモーツアルト像の背後に再開したレストランをモーツアルトと名付けたわけです。
現在のモーツアルト像は、2次対戦の空爆で壊され、戦後の混乱の中で名も無き一人ひとりのウィーン子たちにより瓦礫が集められ、王宮庭園に再現されたものです。文化を大切にするウィーンらしい逸話です。
同盟国のロシアに裏切られた歴史は義務教育の他に社会教育でも明確に伝えられてます。良し悪しとか好き嫌いではなく、実際に歴史に刻まれた体験の確認です。日本とは違いますねぇ。
もちろん、観光客にとってはモーツアルトとかティルグナーよりも、ウィーン市立公園管理課のガーデナーの素晴らしい仕事「ト音記号の花」の方が目につくようです。このガーデナーさん達は世界最高の職人さんです。
なお、映画「第3の男」のカフェ・モーツアルト内から見える景色は、2次対戦直後の様子です。同盟国を裏切ったロシアがねらった国立歌劇場から爆弾がそれて、オペラ座裏手が壊され、それでモーツアルト像も瓦礫と化してます。
制作した彫刻家ヴィクトール・ティルグナーです。

彼のその他の作品などは以下:
以上、インタビュー通訳業務のときにカフェ・モーツアルト経営者 Querfeld 夫妻から伺ったうろ覚えの内容に加筆しました。
ティルグナーからマカルトを経てブルックナーに話を進めたかったのですが、疲れたので続きは次回にします。誰も知らない貴重な文化記録を多く知りますが、公開は体力と時間次第です。5歳児にとっての10年は人生の倍もありますが、70歳の老人にとっては人生の7分の一です。体力と体調の問題もあり、老人には時間が残されてないのです。